赦しの船、風のオール
第12章
吐く息も白い12月、塾のセンター試験対策の模試
があり、かなり早く家を出た。
自転車で駅に向かっていると通り道にあるカカシ
のマンションから出てくる人影がある。まだ遠めだっ
たが、英語科の不知火先生とすぐに分かった。
カカシはいない。
時間ずらして出てくるんだろう。
怒り、不快、そして悲しみ、様々な負の感情がと
ぐろを巻く。
付き合っていなくても、部屋には泊めるのか、それ
とも付き合っていないというのが嘘なのか。
テンゾウは自転車なのでどんどん近づく。ちょうど
マンション横に差し掛かった時にカカシが出てきた。
先に出た不知火はもうだいぶ前を歩いている。
カカシの横で自転車を止める。テンゾウのブレーキ
音でカカシが振り向く。
「…おはようカカシ先生」
「よう、おはよう」
自転車を降りて、横に並び歩きはじめる。
「冬休みも仕事?」
「前も言っただろ。生徒と同じ長期休みがあるわけじ
ゃない」
「不知火先生泊まったの?」
「あっ、見つかっちゃった?」
カカシがふざけて返す。
テンゾウは怒鳴ってしまいそうな感情を抑えて、静
かに聞いた。
「付き合ってないって、言ってたでしょう?」
「付き合ってない」
「でも、部屋には泊めたんだ」
「お前だって泊まったじゃないか」
「僕とは状況が違うでしょう。不知火先生の事は…前
に会った時は…迷惑そうにしてたのに」
自分に都合が良いように考えたい心理も加味され
て、カカシは不知火の事を避けていると思っていた。
夏休みに出会った時には家に入れるつもりはない
と、不知火に向かって言っていたのに。
「強引に来られると、面倒に思うときもある。付き合
ってるわけじゃないから」
「付き合ってないのに、どうして家に泊めるんです
か?」
カカシはどこか他人事のような軽い感じで、テンゾ
ウに答えた。
「やっぱこどもだな、テンゾウ君。特定の相手がいな
い時こそ、必要な関係ってやつだよ」
テンゾウの心は一層重くなる。
自分でも意外だったが、この重い気持ちは、嫉妬で
はなかった。
『俺以外に特定の相手が出来たのか!?』
そうカカシに食って掛かっていた不知火が思い出さ
れる。
これは嫉妬ではない。ただ、悲しい。
「セフレって言う関係ですか?」
カカシが薄笑いを浮かべる。
「露骨な表現だこと、テンゾウ君」
テンゾウが歩を止めた。急に立ち止まったテンゾウ
をカカシが振り返る。
「それって…」
「何?」
「それって不知火先生も同じですか?」
「え?」
「不知火先生もカカシ先生と同じように、割り切って
会ってるんですか?」
「それは…」
「カカシ先生はセフレと思ってても、不知火先生は違
う、本気でカカシ先生の事が好きなんだと思います。」
カカシの表情に微かに怒気が含まれる。
「何でお前にそんな事がわかるんだ?」
睨むカカシにテンゾウが答える。
「僕も好きだから」
カカシが驚いてテンゾウを見つめる。
「僕もカカシ先生が好きです。だから、不知火先生の
気持ちがわかる」
「お前何言って…ふざけた事言うなよ。俺は男だぞ」
「いつも僕に俺に惚れてるのか?って聞いてたじゃ
ないですか。何でいまさら男ってことにこだわるんで
すか」
「あれはお前をからかってただけ…そんな事わかる
だろ。同性ってことにもうちょっと悩め」
「カカシ先生が同性に拘りがないなら、僕にもあり
ません」
「いや、お前は拘れよ、将来考えろ、葛藤しろ」
「不知火先生との関係の方が悩みます」
「それは…」
「僕も本気だから」
もう一度、きっぱり言い切るテンゾウをカカシは黙
って見つめた。
「言うのは大学受かってからと思ってたけど、先生見
てたら本気で好きってことを言いたくなりました」
「俺を見て?」
「カカシ先生は不知火先生の気持ちを利用してると
思います」
「そんなつもりは…」
「でも、実際そうなってる」
「…」
カカシは黙り込んだ。
「先生も自分を安売りしてる」
「安売りって、そんなつもりは…」
「でも実際そうなってる」
カカシを諭すように同じ会話を繰り返す。テンゾウ
はカカシに分かって欲しかった。
誰かを本気で好きになるその切なさを今現在味わ
っているから、その気持ちを軽く扱うような事をやめ
て欲しかった。
「今の僕はまだまだ先生の相手にならないのは判っ
てます。だからきちんと大学行って社会に出て、先生
と対等な立場になることを目標にしてる。今日もセン
ターの模試で…って、僕は早めに出てきたけど、先生
は学校でしょ?時間大丈夫?」
「あ?やべっ!!」
カカシは腕時計を見て慌てる。
「駅まで乗せますよ。乗って」
カカシは素直に自転車の荷台にまたがりながら言
う。
「二人乗りは禁止だろ」
「見つかったら、先生に強要されたって言います」
「え?ここで裏切るのか?たった今、俺の事好きだっ
て言ってたのに」
「僕は将来が大切なので。先生と対等にならなくちゃ
ならないから」
テンゾウが自転車を走らせる風に負けぬようやや
大きめの声を出す。
「俺の将来はいいのか?」
「先生が仕事を失っても僕が養うから」
「あはは…そうくるか」
笑いながらカカシがテンゾウの背中に頭をつける。
途端に背中がかっと熱く感じた。
試験頑張ろう。自分のために。カカシへの告白が本
気だと信じてもらうために。
背中にカカシの気配を感じて動悸がする心を落ち
着けるように、テンゾウはペダルを踏み込んだ。
その夜、カカシに一行だけのラインを送った。
『朝言ったこと、僕は本気です』
返事はなかった。以前にも返信はしないと言われて、
実際テンゾウが何かメッセージを送っても既読にな
るだけで返信はいつもない。
元々生徒と個人的なやり取りはしないと言ってい
たので仕方ないと思う。
でもさすがに告白後なので、返信がないことに多少
落ち込みはした。でも、告白がフライングだったのだ。
とにかく今は目の前の試験に頑張ることだと思う。
年が明けて1月、センター試験の前日。
カカシの方から初めてラインが届く。
『明日、頑張れ』
余りの嬉しさに舞い上がって画面を見ている時に
もう一つメッセージが届いた。
『不知火先生と個人的に会うことはもうしない』
心臓がマンガみたいに皮膚を押しながら前に飛び
出すんじゃないかと思うくらいどきっとした。
不知火先生と個人的に会わない、その言葉を真に理
解するのに多少の時間がかかったが、ようやく飲み込
む。
不知火はカカシに執着していたから、会わないとい
うのはカカシの意思。そしてそれを自分に教えてくれ
た、その喜びが寒い冬でも穏やかな温もりをもたらす
陽射しのように、じんわりとテンゾウを包んでいった。
翌2月、テンゾウは高校を卒業し、3月には第一志
望の国立大学に合格した。