赦しの船、風のオール
第11章
遅刻するというカカシの言葉に急き立てられて、テ
ンゾウはそれから忙しくサンドイッチをかき込み、身
支度を整えて一緒に部屋を出た。
部屋を出る時にちらと窓辺の写真に視線を合わす。
カカシはあの写真を見て泣いていたのだ、声も上げ
ずに。
昨日見た時にも思ったが、若い一人暮らしの男が中
学生の時の写真一枚だけ飾っているのもどこか不自
然だ。
写真そのものが趣味で、他にもたくさん飾っている
というのならともかく。
分からないことが多い。ただ連絡先はゲット出来た。
その事実だけは、テンゾウの気持ちを上向かせる。
一緒に駅へと徒歩で向かう。歩きながら、カカシを
ちらと見る。
長い睫、整った鼻筋、赤い唇。歩く姿も様になるす
らっと伸びた手足。毛先が微かに跳ねたみたいに見え
るくせ毛、色白の肌。
通り過ぎる人がふと視線を投げかける、美しい人。
女子ならともかく、バスケやって体格もいい高3男
子の帰りを心配して、結局家に泊めてくれた。
いい人なのは見せかけの仮面、実はいい加減なダメ
教師と見せかけて、本当は優しいという複雑な人。
真夜中に涙する謎のある人。
不知火先生と、付き合ってはいないかもしれないが、
おそらく同性同士の関係がある人。
駅に着き、テンゾウは駐輪場に置いていた自転車に
乗り、塾には早いので一度家に戻る。
カカシは電車に乗って学校へと向かった。
家は駐輪場と駅の反対側になる。高架を抜けて振り
返ると、時間的にカカシが乗ったのはこれだろうとい
う電車が学校方向に向かって走っていく。
あの電車に乗っているのか、そう思うとほんの数分
前まで一緒にいたのに、去りゆく電車が寂しいと感じ
た。
そして学校で不知火と会うのかと思うと、それだけ
で心が穏やかでいられなくなる。
もう分った。
自分はきっと、カカシ先生に恋している。
1年の時のバレンタインを思い出す。
その時チョコを持って来てくれた女子バスのあん
こが、いつもより微かに背が高く感じて、ふと足元を
見ると、軽く踵を上げてつま先立ちをしていた。
おそらく少しでも足が長く見える様に、少しでも自
分に釣り合って気に入られるように。
今なら分かる。
他にも何人かの女の子に告白されたけど、きっと前
髪を気にして、スカートの長さを気にして、リップの
色を気にして、勇気を振り絞って告白してくれたのだ
ろう。
人を好きになるというのは、そういう事なんだ。
あんことはしばらく付き合って、結局それほどに本
気になれずに別れを告げた時、彼女は大泣きしていた。
今ならそんないい加減な気持ちで付き合わない。き
っとバージンだった彼女の事を思うと、別れを告げた
ことより、そもそも本気でもないのに付き合い、セッ
クスも要求したことがいかに酷いことだったかと自
覚する。
自分の酷さを自覚出来たのは、自分がカカシに本気
で恋をしたから。
数分前に分かれたことを寂しく思う程、人を好きに
なるのというのは、こんなにも切ない。
同性を好きだという葛藤は、カカシと不知火との関
係を見て、逆にさほど感じなくなった。
カカシが女性としか付き合えない人だったらもっ
と悩んでいただろう。
しかし、不知火先生と同性の関係をもっているよう
なので、それは考えてみれば、同性の自分にもチャン
スがあるという事。
ただ、カカシと釣り合うようになるには、やはり高
校生では駄目だとテンゾウは思う。
だから勉強に頑張ることにした。今までもそれなり
に頑張ってきたが、明確な目標が出来たのだ。
大学に入り、社会人となりカカシと釣り合う立場に
なること。
カカシにラインを送ったりはしなかった。そもそも
えこひいきになると嫌がっていたのだから、迷惑はか
けられないという思いもある。
ただ、連絡先を個人的に知っているということは繋
がりの一つだから、それが嬉しかった。
テンゾウのクラスは特進なので、他のクラスより数
日夏休みが短く、夏期特別授業がある。
その前日に一度だけ、明日から授業お願いしますと
だけ送った。
どうということも無い内容だが、ふと、カカシがI
Dを変えたりしていないか不安になったのだ。
即レスではなかったが、数時間後に”がんばれよ。
でもこれからは返事はしないから”という返信をもら
った。
返事はしないということは仕方ないと思う。そもそ
も特定の生徒とだけ連絡取り合うというのは良くな
い事だろう。それよりIDを変えないでいてくれたこ
とが嬉しかった。それだけで本当に頑張れる気がした。
そしてカカシに会えることが、授業が始まる憂鬱さ
を超えて、喜びとなっている。
文化祭や、センター試験の申込みに合わせて志望校
も絞りだしにかかるし、卒業写真の撮影、全国模試、
高校生3年の秋は忙しい。
日々の忙しさに追われながら授業する姿、廊下です
れ違うとき、何かとカカシを意識してしまう。
家の最寄り駅が一緒なので、学校外でも会えないか
とそれこそ毎日思っているが、そう思うと案外と会え
ない。
互いに受験生とはいえ高校の友人達との付き合い
もあるし、塾もあるしでテンゾウとて、そうそう時間
があるわけでもない。
偶然の出会いは結局なく、冬休みを迎えた。