赦しの船、風のオール
第5章
遠足翌日の授業で、カカシはテンゾウの前に現れた。
カカシは何事もなかったようにテンゾウに特別目
を向けることもなく、いつもの穏やかな笑みで遠足を
休んだことを皆に詫び、授業を進める。
滑らかに英語を発音するカカシの口元を、テンゾウ
の方がつい意識してしまう。
キスした…、あの口と。
考えかけて、頭をフルフルとする。冗談じゃない。
何が礼だ。男にキスされるなんて、むしろ罰ゲームだ
よ。
でも…。すごく柔らか…。
「Please read the 58 page.Mr.Yamato」
「え?あ…えーと…」
当てられて自分が授業に集中できていないことを
自覚する。
「Do you understand?」
「え…No, I don't understand.」
カカシがテンゾウに近づく。
「Please read here.」
テンゾウの教科書の58ページを右人差し指でトン
トンとしながらカカシが言った。
その時、カカシが右手首にリストバンドをしている
事に気づく。それまで顔、というより口元ばかり見て
いたので、気づかなかった。
テンゾウが視線を手首から顔の方へ移動させるが、
カカシはすっとその場を離れていく。
授業終了近くになり、カカシが宿題の内容を黒板に
書いた。
生徒たちは否定することが習慣のように、「えー、
やだー」などと文句を言いながらも、それぞれ書き写
す。その時一人の生徒が聞いた。
「先生、どうして今日はリストバンドしているの?」
「Question please go in English.」
カカシに質問は英語でと言われて、帰国子女もいる
テンゾウの特進クラスではひるむことなく誰かが聞
く。
「Why are
you wearing a wristband?」
「Because I was injured.」
「Why did you get hurt?」
「It is a secret」
怪我をした理由は内緒だと言って、カカシは微笑む。
最後に、この前の誤採点があった答案を提出した生徒
に返し、授業を終わろうとした。
テンゾウは顔を上げる。
「あれ?先生待って。ああ、ええと」
カカシの授業は基本すべて、会話は英語でと言われ
ている。
「I have
not got my test」
カカシが教室を出ようとしたのでテンゾウは何と
か英語を捻りだす。
自分も誤採点があって再提出したのにテストを返
されていない。
「Oh! I'm sorry I forgot」
すかさず謝って、極上の笑顔を作りカカシは続けた。
「Please come to
take after
school」
「あ、after
school?」
「yes」
「先生ったらやっぱり天然〜」
女子のカカシの天然ぶりをからかう声を聞きなが
ら、テンゾウは絶対わざとだなと内心思う。
1点、2点を大事にしてくれと注意したことをきっ
と根に持っているんだ。だから昨日もあんな目に…。
キスを思い出し、一人赤面する。
それから放課後になるまでに、カカシの噂に新たな
話が付け加えられた。
あのリストバンドはリスカの痕を隠すためで、昨日
の遠足を休んだのもそのせいではないかと。
穏やかな笑顔の下に何か悩みがあるんだと、すっか
り悲劇の王子様扱いとなっていた。
放課後、掃除しながらその話をサイから聞いたテン
ゾウは思わず失笑する。
「ないない。あの先生はそんなキャラじゃないよ」
「なんでわかるのさ?」
「まあ、それは僕の印象だけど…」
迂闊なことは言えない。喫煙している様に見える自
分の写真のスマホ分は削除したが、きっとメールでパ
ソコンに送られている。
しかし女子の想像力には感心する。どうせ想像する
なら、実は悪キャラとか思わないのかな。
あの先生は悩める王子じゃなくて、人の悩みが蜜の
味、という悪魔だよ。
進学校のテンゾウ達の学校では、クラブ活動もそれ
なりに行われているが、スポーツの方はさして強豪と
いうことはなく、3年ともなれば参加もかなり緩やか
だ。一応引退は夏の大会が終わってからということに
なっているが。
「今日はクラブ休む」
同じバスケ部仲間の鹿丸に伝言してテンゾウはカ
カシのいる職員室へ向かった。
姿が見えなかったので、ちょうど通りかかった同じ
英語科の不知火先生に尋ねる。
「ここにいないなら、視聴覚室で準備してるんじゃな
いかなあ。明日はリスニング授業をするとかって言っ
てたから」
ほら、テストを取りに来いとかって言っておきなが
ら、職員室にいないんだもの。絶対ただの嫌がらせだ
よ、などとテンゾウは思いながら視聴覚室に向かう。
視聴覚室の部屋に入ると、教材のDVD から女性が
話す英語がスピーカーから流れて、その部屋の真ん中
にカカシが座っていた。
「カカシ先生」
「やっぱり来たな。ここって誰かに聞いた?」
振り返ってカカシが言う。
「不知火先生に聞きました」
「あ、そう」
カカシがリモコンを操作し、DVD を止めた。
「テスト取りに来いって言った時、視聴覚室とは言わ
なかったじゃないですか」
「ああ…まあ大事なテストならどこでも取りに来る
だろうって思ってね」
ほら、やっぱりあの注意を根に持っているんだとテ
ンゾウは思う。何か言い返したい。
「カカシ先生が真面目に授業の準備とかするとは思
わなかったな」
「何だよ、人聞き悪いな。俺はいつでもありったけの
準備をして授業に臨んでいる」
「これほど言葉に重みのない教師は初めてですよ」
「全くいちいち突っかかるなあ…。お前やっぱり俺に
気があるんじゃないの?」
途端に昨日のキスが再び思い出される。全身、服に
隠れて見えないところまでカーッと赤く熱くなった
のが自分でも分かる。
忘れようと努力しているのに。
「な、何言って…。ぼ、僕は批判しているんです。ど、
どうしてそんな風に…だ、だいたいキスしてきたのは
先生の方じゃないですか、せ、生徒にキスとか…セク
ハラ、そう!セクハラですよ」
しどろもどろで我ながら情けない。
「あはは…。セクハラって嫌がっているのに無理やり
することだろ。ほら、これさ」
カカシが右手首のリストバンドを外した。
そこは腕輪のようにくっきりと内出血していた。ま
るで縛られた痕の様に見える。
「いくら何でもこれはまずいからリストバンドで隠
してた。人に言えない趣味でもあるみたいで。ほんと
はお前に腕を掴まれてた痕だけど。こんなに必死に掴
んで俺の事助けようとしていたのかと…。だったら礼
に、キスでもしたらいいかと思ったんだけど」
カカシがやっぱり小ばかにしたようにくすくす笑
いながら言った。