赦しの船、風のオール
第3章
「覚えてないんですか?」
「ん?生徒のこと?」
「教師って…生徒を覚えるのも仕事でしょ」
「無茶言うなよ。教科担当は5クラスも持たされてる。
200人もの顔覚えられるか。第一皆同じ服着てるし」
「同じ服って…制服なんだから当たり前」
マジで何なんだ、この先生。
テンゾウは大きなため息をついた。全力疾走の疲労
が一気に溢れてくる。
「でも教科だけのクラスはともかく、僕は一応カカシ
先生が副担してる7組にいるんだけど」
カカシがふふっと微笑する。
「うん、思い出した。この前1点、2点が貴重とかっ
て俺に説教した大和テンゾウ君」
「説教って…僕達にとっては重要な事なのに」
テンゾウの言葉に被せる様にカカシが言う。
「テストの1点、2点で人生変わるみたいに言うなよ。
人間生きてりゃいいんだよ」
テンゾウはその言葉にカチンとくる。誤採点に気を
付けてほしいと言った時、ばかばかしいと聞こえたの
は間違っていなかった。あれはカカシの本音。
でも教師なら1点、2点も取りこぼし無いようにケ
アレスミスするなとか、注意する側じゃないの?
「僕は間違ったこと言ってません。だいたい遠足さぼ
るような教師にそんな言い方されたくない」
カチンときた怒りで、カカシにさぼり前提で言い返
す。
「さぼりじゃない。イルカ先生に聞かなかった?風邪
だよ。こほん、こほん」
嘘っぽい咳の真似をするカカシにテンゾウは苛々
が募る。
「ほんと白々しいから。今だって大概全力疾走だった
のに、平気そうだし。だいたい風邪で弱ってるような
時、チンピラに言い返したりしないでしょう」
「心外だなあ…。ほんと風邪で調子悪いのに。だから
チンピラさんが歩いてくるのに気づかなかったんだ
よ」
カカシは言いながらポケットから煙草を取り出す。
生徒の目の前で路上喫煙始めるカカシに怒り通り
越し、テンゾウは呆れた。
「あのさ、風邪って言い張りながら煙草吸っても、全
然信用できないよ」
「これ?煙草じゃないよ」
「ああ…じゃ、禁煙用のダミーみたいなやつ?」
「じゃなくて、大麻」
カカシが何を言ったのかテンゾウは分からない。
「たいま?」
「そう、大麻。俗称ではっぱとかみんな言うけど、つ
まりマリファナ」
「大麻…?マリファナ…?って麻薬の?え…?それ
って合法だっけ?いや違う…」
カカシの口からみたびの衝撃の言葉が出て、単純に
驚いたという感覚を飛び越え、思考回路にトラブル発
生したような単語の羅列しか出てこない。
「まあ日本じゃ違法だけど、国によっては煙草より習
慣性低いって合法なとこもあるんだぜ」
ふーっと煙を吹き出し、カカシが言う。
テンゾウにとって麻薬などというものは、テレビや
映画の世界で見るだけのもの。現実味がない。
「でもそれ…普通の…煙草にしか見えませんけど」
「そりゃ、ポリさんに見つからないようにカムフラー
ジュだよ。普通の煙草の箱に入れて煙草と見せかける。
でもマリファナ。独特の甘い臭いがするって、聞いた
ことない?」
「さあ…?」
「ちょっと嗅いでみろ。こんな経験したことないだ
ろ?」
「あ、当たり前。そんな麻薬なんて…」
「じゃ、こんな臭いのするモノには近づいちゃいけな
いって言う危険回避の経験に嗅いでみたら」
カカシがテンゾウに自分の吸いかけの煙草に見え
るマリファナを渡す。
「吸わなくていいからさ。ちょっと口にくわえてこう
やって手で煙を自分の方へ扇いでみろ」
カカシはゼスチャーで手をパタパタさせてみる。
カカシにスマートな仕草で誘導されるままに、テン
ゾウはマリファナを口にくわえ、煙を自分の方に向け
る様に手で扇ぐ。
ん・・・?独特の甘い臭いって…?別に煙草の臭い
にしか感じ取れないけど…。
パシャリ。
シャッター音が聞こえて、テンゾウは顔を上げた。
「何してるんですか?」
「写真撮った」
「僕の?」
「そう、お前の」
「何で?」
理解不能なカカシの行動を問い詰めている間にも、
カカシはスマホの画面を何やら操作している。
「保険だよ」
「保険?」
「そう、こういう写真押さえておくと、お前も俺のさ
ぼりをイルカ先生にチクれないでしょ」
「は…はあっ!?どんな写真撮ったんだよ!?」
テンゾウの半ば怒鳴るような声に、カカシはあっさ
りとスマホを差し出しその画面を見せる。
そこに誰がどう見ても煙草を口に咥えているテン
ゾウが写っていた。
テンゾウは口の煙草を地面に叩きつけるように捨
ててカカシに詰め寄る。
「その画像今すぐ消してください!消せよ!!」
「これ消しても、もう俺のパソコンメールに送ったか
ら」
「な、なんでそんな事…」
「だから保険だって。お互いまずいことは黙っておこ
うね、テンゾウ君」
カカシは、皆からアイドルのようだ、モデルのよう
だと言われる笑顔を見せる。
人の二面性を扱った小説のジキルとハイドのよう
な人だと、そのカカシの笑顔を見てテンゾウは思う。
いや、あの小説は本質が善人のジキル博士だったけど、
この人は本質が悪人のハイド氏。
「煙草なんて吸ってないのに…、僕は臭いを嗅いだだけで…」
「ああ、そうそう。臭い分かった?」
「分かりません」
「そうだろうねえ。だってただの煙草だもん」
「それも嘘ですか?」
人間て、あまりの怒りを通り越すと無気力になるん
だとテンゾウはぼんやりと考える。もう大声で批判す
る気も起こらない。
「マリファナなんてどうやって手に入れるかも知ら
ない。お前素直だよね。すぐ人の言葉信じてさ」
「人じゃなくて、教師の言葉だからでしょう。生徒な
ら信じますよ、先生なんだから」
カカシはそれまでずっと小ばかにしたような薄笑
いを浮かべていたが、テンゾウの言葉にすっと笑顔は
消えて、厳しい表情となった。