いつかケルンで
(十六)
「痛みはまだありますか?」
「かなり楽になりました。先生のおかげです。」
「あなたがご自分で頑張ったからですよ。」
「ありがとうございます。」
僕はベルリンの大学病院で臨床研修に追われている。毎日、
いくら時間があっても足らない。
言葉からして覚えなくてはならない。日常会話は出来るが、
特殊な医学用語や、地方から大学病院に診療に来られる方の
訛り交じりのドイツ語など、戸惑うことも多い。
手術の技術は、やはりドイツ医学のすばらしさを感じる。
立ち会った手術の術式を、寝る間を惜しんでノートに記す。
医学雑誌を、ドイツ語辞書片手に読み漁る。
クランケの状態が悪ければ、当直で無い時も病院に泊まり、
いつ呼ばれてもいいように、待機した。
そんな僕の事を、揶揄する人もいたようだ。東洋の猿が、
必死にもがいてるだけだ、売名行為、大学病院から日本に良
い評価を送って欲しいだけだろ帰国後の出世のために・・・
などなど。
実際、内科に配属された小鉄と出雲からもやりすぎるなよ、
とやんわり注意された事もある。
僕には、そんな噂などどうでもいいことだった。自分の手
術を受けたクランケが順調に回復し、元気に退院されていく。
その事は素直に嬉しかったし、次も頑張ろうと意欲が湧いて
くる。
ただ、そういう時間のない生活へ、わざと自分を追い込ん
でいたのも事実だ。
一人になると、どうしようもない喪失感に襲われる。疲れ
切っているのに、ベッドに入っても眠れない。そんな時は、
かえって難解な医学辞典を手にする。何も考えないで、論文
を理解する事に集中する。
一人寝は、辛すぎる。柔らかなベッドは、かの人の肌を想
い出させるから。僕にはベッドで眠るより、病院当直室の、
硬いソファで横になる方が、ずっとずっと気持ちが楽だった
のだ。
結果的に、自分の時間を惜しみ臨床に励む僕の姿は、大学
病院から評価され、クランケの方々の希望もあり、三年の国
費留学期間が終わった後も、病院に残ってくれないかと打診
された。
もとより家族は幼い時に死別し、彼とも別れた僕は日本に
何の未練もなかった。
本来日本に戻り、国費留学させてもらった分の貢献を日本
の病院で発揮するはずだったが、先の大戦以後はドイツ及び
イタリアとの関係を強化しつつある日本政府は、ドイツから
の申し出に、あっさりと僕を残す事を了承した。
僕はドイツの国家試験に受かり、医者として働いている。
忙しさは、研修時代とさして変わらない。その忙しさに僕は
身を委ね、時を過ごしていく。
それでも、例えば雨に煙る木立の向こうに、窓から差し込
む日の光の中に、早朝の靄の中に、月明かりの夜に、僕は彼
の姿を見つける。
彼は優しく儚げな笑顔を向け、僕は彼に手を伸ばす。消え
てしまうと・・・、それは幻と判っていてなお・・・僕は手
を伸ばし、消えてしまう彼を追い・・・そして立ちすくむ。
身を引き裂かれるような、そんな痛みが僕の中を駆け巡る。
息さえ出来ないような、心の痛み。
僕はその痛みが通り過ぎるのを、ただ待つしかない。何度
も何度も、僕は息を潜めて痛みが通り過ぎるのを待つ。
そうして、時は移ろい過ぎてゆく。
日本を発って、四回目の夏が過ぎようとした時、僕はドイ
ツに来て初めて長期休暇を申請した。
働く猿だと言われた僕が、受け持ちクランケの手術を振り
分け、申し送りを行い、準備を整えベルリンを離れた。
それは立ち止まってばかりいた過去に決別し、新たな季節
を迎えるように、ケルンへ向かう為だった。彼と一緒に行く
はずだったケルン市へ、ケルン大聖堂へ行く為に、僕はベル
リンから一人で電車に乗りこむ。