いつかケルンで
(十三)
僕達は室内に戻り、彼のためにコーヒーでも入れようと僕
が台所に入ると、食料の買出しに行っていた使用人の奥さん
が中にいたので、少なからず驚いた。
戻ってきた事に気づかなかった。いつから居たのだろう。
それからしばらくしたある日、僕と彼は乗馬で遠出しよう
と外に出た。忘れ物に気づいた僕が取りに戻ると、部屋の中
から話し声がする。使用人の奥さんが、電話で誰かと話して
いた。
「はい・・・。そうです。ええ、今日も二人で出かけて・・・。
はい・・・。それはもう、片時も離れないといった感じで・・・。
あっ!ま、またあらためて、失礼します。」
僕の姿に気づいた奥さんが、慌てて電話を切った。
「あ、あの電話の使用は、カカシ様に許可いただいてますか
ら。」
「はあ・・・。」
使用人の奥さんは、非常に慌ててドアにぶつかりながら出
て行った。
僕が電話の使用を咎めると思ったのだろうか、それにして
も断片的に聞いた会話が気にかかる。何だか言いようのない、
しっくりとこない気持ちで僕は外で待つ彼の元へと戻った。
毎年、7月の始めから8月いっぱいまで軽井沢で過ごしてい
たが、その年は10日ほど過ごした後、すぐに東京に引き上げ
た。
なんといっても、渡航の準備があった。
僕は何より国費留学生に選ばれる事が大事だったので、そ
の為に勉強に真剣に取り組んではいたけど、特に留学の準備
をしていたわけではなかったし、彼は本当に突然僕に一緒に
行こうと誘われたわけで、互いに海外への渡航には、それな
りに準備が必要だった。
「じゃあ、また。」
彼と東京駅で別れて、それから僕は、彼と連絡が取れなくな
った。
しばらくは、僕自身の渡航準備に追われていた。家も処分
した。
留学は三年かかる。留学費用は国から出るが、ある程度の自
分の自由になるお金も必要だ。
安い賃金で、僕の身の回りの世話をしてくれた親の代から
の手伝いのミヨさんにも、いくらかのまとまった賃金を払っ
て今までの感謝を述べた。
三年後に帰国した時は、安い借家でも借りればいいだろう。
狭ても、彼が泊まれそうな小奇麗な借家を借りればいい。
色々と世話になった方への挨拶なども、済ませなければな
らない。服やカバンなども買った。
しばらくして、僕は彼に電話を入れた。彼の準備はすすん
でいるだろうか。
ところが、交換からは取次ぎできないとの返事が帰ってき
た。
よく判らない。留守ではなく、取次ぎできないという返事。
意味が判らず、僕は何度もかけた。いずれも交換手からの返
事は同じだった。
僕は直接彼の家に出向いた。門前で、彼の家の侍女、僕は
何年も彼の家に行っているので、大概の使用人とは顔見知り
だったが、僕をよく知っている侍女が、申し訳なさそうに、
中に入れることは出来ないと告げた。
「どうして!?」
「コハル様に禁止されてます。」
「そんな・・・。」
僕は強行に中に入ろうとした。
「お待ち下さい!!」
侍女の叫びに数人の男たちが飛び出し、僕を取り押さえる。
「それ以上中に入られると、警察をお呼びします。」
結局、僕は中に入ることは出来なかった。
僕は、家庭教師をしていたサクラに、彼の家に電話をかけ
てくれるように頼んだ。僕でなければ、彼に取り次いでくれ
るだろう。
とにかく彼と直接話しがしたい。事情を知りたい。僕は必
死だった。
サクラは、とにかく電話をかけてカカシ侯爵を呼び出して
欲しいと懇願する僕に、特に事情も聞かず、僕の目の前で、
畑侯爵家に電話をかけてくれた。
「えっ?そうだったんですか?・・・。日向の・・・。そう
ですか・・・・。あの、どうしても、出ていただく事は出来
ませんか?ほんの少しでもいいんですが・・・。そうですか・・・。」
サクラは、僕に代わることなく受話器を置いた。
「先生。ごめんなさいね。私でも取り次いでいただけなかっ
たわ。今は、ご婚約の準備でとても御忙しいそうよ。」
「婚約・・・・?」
「ええ、日向家のヒナタお嬢様と、カカシ様がご婚約なさる
らしいわ。」
「え・・・・・?」
それからの時間を、僕はどうしていたのかまるで判らない。
サクラに何といって別れたのか、留学までの準備を、どう進
めたのか、何を食べ、誰と会い、何を話したのか、まるで判
らない。生きている感覚さえ持てないまま、悪戯に時は過ぎ
ていく。
やがてドイツに渡航する日が訪れる。
その日以降、人手に渡る事になっている家に一通の手紙が
送られてきた。その封筒に書かれている文字は間違いなく、
カカシさんのものだった。
震える指で、僕は封筒を開けた。