いつかケルンで
(七)
「もしもし。テンゾウ、俺さ、帝大合格したよ。」
いつものように彼は、何でもない事の様にさらっと電話を
かけてきた。
「あ、おめでとうございます!」
僕の方が少し意気込んでしまう。
「うん、ありがと。それでさ、ドイツ語の勉強会を今度の日
曜から再開しようと思うんだけど、テンゾウもまた、来てく
れるよな。」
さすがに受験直前は日曜のドイツ語も一旦中止していた。
再開するからと、また僕を誘ってくれているのだ。
「ルドルフもさあ、アルバイト代が入ってこないと困るから
早く再開してくれって言ってきてさ。まあ、ああいう大っぴ
らなところが日本人の感性と違うよね。」
彼が笑いながら言う。
約一ヶ月ぶりの彼との何気ない会話が、僕は嬉しくて仕方
ない。電話越しなのがもどかしいくらいだ。
早く日曜が来て、彼に直接会いたいと思う。自分のこの思
いの正体を突き止める事は、避けていた。自分の感情にその
まま身を委ね、探る事はしない。考えすぎて彼と会えなくな
ることが、僕には辛かったから。
彼からの電話があった日から僕は、時間を割いて洋書店巡
りをしていた。
彼に合格祝いを贈ろうと思い、それは彼が研究したいと言
っているゲーテに関するものにしようと思ったからだ。けれ
ど洋書店巡りをして僕は、この思い付きが失敗だった事が判
った。
僕にはゲーテの事がさっぱりわからないし、だいたい、僕
が買える様な文献は彼なら全て持っているだろうという事に
気づいたからだ。華族の中でも、はたけ家の経済力は群を抜
いている。彼の家に行くと、使用人が何人いるのだろうと思
うくらい現れる。彼の家の書斎に案内してもらった事がある
が、とても高価そうな翻訳本がたくさん並んでいた。
彼の叔母様が僕の出入りを快く思わないことも、ある程度
仕方ないと思う。同じ高校とはいえ、奨学金を受けて通って
いる僕とは身分が違うのだ。
そんな事を考え、少し落ち込みながら洋書店の中をうろう
ろしていたら、僕の目に、ドイツの風景と日本語で書かれた
箱が目に入った。手にとって中を見ると、そこにはドイツの
風景画が何枚も入っている。
美しいドイツの町や名勝が描かれている絵だった。画家の
名前がドイツ語で書いてあったが、僕には誰だかわからなか
った。ただ、絵は精巧な筆致で描かれており、まるで写真に
色をつけたようだ。
絵の裏面にその絵の場所がドイツ語で書かれている。
観光地で売るお土産のような類のものかも知れないと思っ
た。
日本に輸出されて、日本で箱に入れられたのだろう。僕は
とても気に入った。
ドイツは彼と僕をこの一年間、結びつけていたものだ。彼
はゲーテを研究したいと言っている。いつかドイツに行きた
いとも僕は進んでいるドイツ医学を学びたいと思っている。
そして一緒にドイツ語を習っている。
そのドイツ風景画の絵のセットを、僕は彼への合格祝いに
買った。
受験で一ヶ月会わないでいた彼は、元々白い肌がいっそう
白くなったような気がした。僕が合格祝いにとドイツの風景
画が入た箱を差し出すと、彼は驚いた。
「そんな、気を使わなくてもいいのに。」
「高価なものじゃないんです。開けてみて下さい。」
箱を開けて中の絵を見た彼の頬が、段々赤みを増していく。
「凄い・・・。ドイツだ。」
一枚、一枚手にとり絵を眺める。嬉しそうに絵を眺める彼
の横顔が輝いていた。
「St.Marienkirche。聖マリエン教会だね。舞姫の舞台の。」
「Unter den Linden(ウンター・デン・リンデン)。綺麗だ・・・。」
彼が僕を振り返り、にっこりと笑った。
「ありがとうテンゾウ。ほんとに嬉しいよ。」
その笑顔を見て、僕は買ってよかったと心から思った。
そのうち、家庭教師のルドルフがやって来た。ドイツは彼
の故郷だ。僕達は彼にも絵を見せた。ルドルフはもの凄く興
奮した。
遠く異国の地で、懐かしい母国が描かれている絵を見て、
感激したようだった。
そしてルドルフがある一枚の絵を見て、今度は涙を浮かべ
た。そこには、美しくも荘厳な大聖堂が描かれていた。
「これは・・・懐かしい僕の故郷のKölner Dom(ケルン大聖
堂)・・・。」
ルドルフはドイツのケルン出身だった。その日のドイツ語
講座は、ルドルフの故郷自慢になった。
「この、ケルン大聖堂は、正式にはDom St. Peter und Maria
(ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂)って言って
ね。世界に誇るべき大聖堂だよ。中の螺旋階段を上ると展望
台があってね。ライン川が流れる美しいケルン市内を一望で
きるんだ。」
彼が自慢したがるのも無理はないと思った。本当に絵に描
かれている。ドイツの風景はどこも美しく、いつかこの目で
見たいと思わせる迫力があった。
いつか、ドイツに行きたい。そしてルドルフは僕達を案内
したい。その日からそれが、三人の共通の願いとなった。け
れど、僕達のその願いは早々に砕かれ、さらにはルドルフと
も別れなければならなくなった。
サラエボでオーストリアの皇太子が暗殺された事が契機と
なり、欧州で戦争の嵐が吹き荒れたのだ。
ルドルフの勤務していた領事館も早々に引き上げた。日本
は英国と同盟を結んでいた為、ドイツとは敵対関係になった
からだった。