いつかケルンで
(六)
新学期が始まり、僕は二年に、カカシさんは三年に進級し
た。学年が違うため、そういつも学内で会えたわけではなっ
たが、それでもごくたまに、放課後の図書館で偶然会うよう
な事もあった。
彼と会えた時、僕は胸が高まるのを感じる。この高まる気
分は何なのか、僕は答を見出せないまま、ただ彼と話しが出
来るのが嬉しかった。
彼は三年なので、自然と進学の話しになる。
「カカシさんはやっぱり帝大狙いですか。」
「うん。俺さ、実はドイツ文学に興味があってね。ゲーテの
研究をしたいと思ってる。」
「ゲーテですか・・・。凄いですね、僕にはさっぱり。」
僕は、父の後を継いで医者になるつもりだったし、自身理数
が得意で文学には弱かったから、純粋に彼を尊敬した。
「俺にすれば、理数が得意な事が凄いよ。」
「そんな・・・。あ、でも僕は医学部進学希望ですから、実
はドイツ語は勉強してるんです。やはり、日本の医療はまだ
まだ欧州には追いついていませんし、中でもドイツの医学界
は進んでいますから。文献もドイツ発行のものが、突出して
レベルが高いです。」
「へーそうなんだ。俺は医学の事は判らないけど、ドイツ語
を習う点では同じだな。」
「ええ、本当は誰かに習うのがいいんでしょうけど、発音が
判らないですから。正直、そんな余裕はないものですから、
とりあえず本で勉強しているんです。」
僕はカカシさんと話せることに舞いあがり、つい言わなく
てもいい経済事情まで話してしまった。
「あ、それならさあ。毎日曜日、夕方に俺の家に来たらいい
よ。俺、実はドイツ語の家庭教師に来てもらってるんだ。父
の知り合いのつてで、ドイツ領事館に勤めてるドイツ人。ま
あ、領事館内での仕事はあまり重要な役の人ではないらしく
て、給料も安いからアルバイトに丁度良いって、喜んで来て
くれている。
テンゾウも一緒に習おうよ。内から割と余分目に払ってる
から、テンゾウの講師料は要らないよ。俺が話を通しておく
から。」
「それではいくらなんでも、甘えすぎでは・・・。
それに、あの叔母様が、僕にはいい印象を持っていらっしゃ
らないように思うのですが・・・。」
「ああ、叔母上の事は気にするな。俺の交友関係に口を出す
のが間違ってるんだから。それに何より、俺がテンゾウに来
て欲しい。
テンゾウと一緒にドイツ語習えたら、楽しくてもっと上達
する気がする。」
彼のその言葉で、僕の中の講義料の件や叔母様への遠慮が
吹き飛んでしまった。
そう、僕も彼と一緒にドイツ語を習いたい。いや、正直に
言うと彼と過ごす時間が増える事が嬉しい。サクラの家庭教
師は午前中に行っている。夕方なら、もちろん空いている。
その時間を彼と過ごすのだ。
そして翌週から僕は本当に、彼の家に毎日曜日通うことに
なった。
ドイツ人講師はルドルフといい、新たに加わった僕にも親
切に教えてくれた。もっとも、僕の知らないところでカカシ
さんが講師料を上乗せして払っているのかもしれない、とい
う思いは正直あったが、ここは彼の好意に甘えておこうと思
った。だって、僕が訪ねた時の彼の出迎えてくれる笑顔が本
当に楽しそうだったから。そして何より、僕自身が嬉しくて
楽しくて、このお礼は将来にとって置き、今は甘えておくと
決めたのだ。
時々、家の中で彼の叔母様と顔を合わせる事があり、僕は
その度丁寧に挨拶をしたが、叔母様から返ってくるのは頭を
傾けるかどうかの仕草だけだった。でもそんな歓迎されない
空気も、彼と過ごす時間が圧倒的に楽しくて、いつしかさし
て気にならなくなった。
そして一年後、彼は見事に帝大文学部に合格した。